FEATURE
2022.12.20
FEATURE
2022.12.20
もしもその音楽と出会っていなければ、いまの自分はない。人は誰しもが、そんな人生の転機となった音楽を持っているもの。そこでこのコンテンツでは、各界のFREEZINEたちに、自分史上において転機となった10の音楽を選んでもらい、当時のエピソードと共に紹介していただきます。選ばれた音の並びから、人となりが見えてくる。
『週の真ん中水曜日、真ん中もっこり夕焼けニャンニャン』真ん中もっこりの意味も知らずに、幼稚園から帰宅した後の楽しみは夕焼けニャンニャンを観ることだった。人生で一番最初に憧れたアイドルであり、一番最初に抱いた将来の夢はおニャン子クラブメンバーでもあった。
子供心にも決して高いと思えない歌唱力、個人個人をよくよく見るとお顔の造形が然程整っていないメンバーもいること、それでも若い女の子がたくさん集まっているという事は、それだけでこんなにも可愛いらしくキラキラしているのかと、ブラウン管の小さなテレビ越しの彼女たちにワクワクした。
将来メンバーになった際の事を考え、セーラー服を脱がさないでの振りを見様見真似で覚えようと誰も居ない(と思っていた)部屋で懸命に練習を重ねるも'87年おニャン子クラブは解散。もうおニャン子メンバーになれないと号泣した事を今でも覚えている。頑張っても叶わない事もあると知る人生初めての挫折であった。
若い頃のとんねるずはめちゃくちゃに無鉄砲で常に大暴れしていて最高に面白かった。伝説の放送事故と呼ばれるカメラ転倒事件とか、乱闘事件はとんねるずファンでなくても誰の記憶にもあるものだと思う。
僕が自身のステージで客席に降りてそこいら辺の知らない人に飛び付いたり、机によじ登ったり、パンツをどうにかしちゃったり、アダルトグッズを無理やり握られせて自身の股間に導いたり、常に怒られるような事ばかりしでかすのは、とんねるずの暴走がかなり影響を及ぼしている。
時代が変わってコンプライアンスがどうだとかになっちゃって、テレビがクソつまんねーコンテンツになっちゃって、もうテレビでとんねるずを観ることは殆ど無くなっちゃったというか、僕がクソつまんねーコンテンツを観ること自体なくなっちゃったんだけど、コントでも歌番組でも常に子供時代の僕をワクワクさせてくれたとんねるずが与えた影響は大人になった今でも計り知れないものがある。
小学校高学年頃より『どう冷静に考えても自分の歌唱力に決定的な難がある』という事実に流石に気が付いてしまっていた僕は、気の合う友人らとカラオケBOXで好きなアーティストの歌を歌う程度の楽しみは得られていたものの、同じ時期に生まれてきた近所の子供を寄せ集めただけのクラスメイトと呼ばれる特に仲良くもない連中の前で全く好きでも何でもない歌を歌わされる音楽の歌唱テストはとにかく嫌いだった。
音を楽しむと書いて音楽と書くのに何も楽しくねぇな、授業の度にそう思った。
同じくして好きでもなんでもない歌を、特に仲良くもない連中と強制的に歌わされる合唱コンクールも当然に大嫌いだった。
何とか歌わずに済む手立てはないものかと考えた結果、指揮者に立候補するというナイスポジションを確立し、中学高校6年間の全合唱コンクールで指揮者賞を受賞してきた。
中でも中学1年最初の合唱コンクールで歌ったこの曲は、世の中の回避ルートを教えてくれる大変貴重な曲になったと思う。
当時、何言ってんのか全然意味解んねぇやという気持ちで指揮棒を振っていたが、本件を寄稿するに当たり、改めて歌詞を読み返してみたところ、成程。40過ぎても何言ってんのか全然解んねぇや。
その時好きになった人にすぐに感化されてしまう非常に単純で大変わかり易いクソチョロ女を思春期以前より貫き続けている僕は、思春期真っ只中だった中学二年生、勿論例に漏れる事無くその時好きだった男の子の影響をモロに受けて、当時テレ東で放送されていた新世紀エヴァンゲリオンにどハマりしていた。…ように見せかけて、あのアニメの内容は中学生には少々難しく、内容よく解んねーけど話しを合わせる為に毎週一生懸命視聴して、アニメージュとかいうアニメ情報誌の考察を欠かさず読まねばならない、そんな作品だった。
そんな新世紀エヴァンゲリオンのエンディング曲に起用されていたのが、FLY ME TO THE MOONだった。
丁度周りの子達がカッコつけで洋楽を聴き始めたりする年頃だったせいもあり、初めて自分の意思で聴いた英語の曲がFLY ME TO THE MOONなのである。
良く解んねー内容のアニメも、歌詞が解んねー英語の曲も何だか自分をちょっとオトナにさせてくれる、そんな気がしていた。
しかしこれはおとなになった今現在も、僕にとって歌とはメロディーに乗せられた詞に共感したり感動出来たりしないと楽しめないのだ。
翻訳された詩を読むのではなく、耳で聴いて意味を噛み締められないと歌声も正直音としてしか聴き取ることが出来ない。
背伸びをして聴いた初めての洋楽は、自分は歌詞の内容が直で理解出来る邦楽しか楽しめないということと、好きな男にはどんな手段を使ってでも媚びを売るタイプのクソ女という事を教えてくれた。
言わずもがな、ダウンタウン浜田雅功と当時飛ぶ鳥を落とす勢いのヒットメーカーだった小室哲哉によるユニットのデビュー曲。
ダウンタウンがMCを努める音楽番組内で『小室が書いたら売れるんだから俺にも書いてくれ』と頼んだことがキッカケという台本ありきっぽいサクセスストーリーはさておき、この歌の歌詞『流れる景色を毎晩必ず見ている』という1文…
要するに追われる仕事に疲れたサラリーマンが帰宅ラッシュの満員電車から見えた景色を見て…
という意味合いなんだが、この歌詞を当時の小室哲哉が当時の浜田雅功に歌わせる事はとても深い。
絶対に満員電車なんかに乗った事なんて無かったであろう人が、絶対に満員電車なんかに乗った事なんて無かった人に歌わせて、大衆からの共感を得てセカンドミリオンを突破させたのだ。
世代的に小室ファミリー曲は沢山聴いてはきたが、これ程までに実際に経験した事がないことを実際に経験した事ない人歌わせて共感を得られる曲は他にない。
愛の才能でデビューして以来、なんて可愛い歌声なんだろうと発売する度にCDを買っていた川本真琴。その歌声は勿論だがそれ以上に衝撃を受けたのは彼女のワードチョイスだ。8センチのCDが納められた縦長のCDケースのジャケット裏に書かれた歌詞を読むのが堪らなく好きだった。
ハレンチなクラクション、へそ曲がりで放っとく空、境界線みたいな身体が邪魔…こんなワードは一生かかっても自分からは出てこないやと魅了された。されまくっていた。
川本真琴の曲は全て素晴らしかったのだが中でも4thシングル桜の歌詞が圧倒的衝撃だった。
学生時代の友達とも恋人とも呼べない異性との距離感を『片っぽの靴がコツンてぶつかる距離』って表現しているのだ。僕はこれ以上の表現って小説でも歌詞でもまだお目にかかったことがない。
いつかこんなステキなワードチョイスを生み出せる人になりたいと思い20数年、立派な下ネタ替え歌女が爆誕したわけなんだけど、僕が詩を書く原点は誰がなんと言おうと、ご本人には不本意極まりないと思いますが、もう間違いなく川本真琴なんです。
時は2000年代初頭、まだmixiが現れるより以前、Windowsのメモ帳にhtmlを打ち込み、あるいはビルダー辺りを駆使してまでホームページを作成し、そうまでして自身の渾身の自撮りを載せ自己顕示欲を満たすネットアイドルと呼ばれる少女たちが多数いた。勿論その一人が僕だ。
今のようにインスタやTwitterアカウントさえ作れば手軽に自己顕示欲を満たせるそんな時代ではない、欲を満たす為に少女達は慣れないパソコンに向かい満たす場そのものを自ら作成せねばならなかった。
ネットアイドルと自称し、週刊誌の特集や深夜番組にほんの少し出させて頂いていたある日、当時は笹塚にあったとある芸能事務所にスカウトされたのだ。
『うちは音楽系のプロダクションで多くのアーティストが所属しているんだよ。聞いた事ないかな?○○○って曲。あのバンドもうちの所属でね』
山梨の片田舎から面談にやってきた僕に事務所の社長はそう話してくれた。
成程全然知んねえや。これは僕がバンドマンに疎かったからでは無い。本当に無名のバンドマンやアーティストを名乗る若者が『プロダクションに所属している自分』に酔いたくて所属をしている、そんな場所だったように思う。
聞いたこともないような家電メーカーのイメージソングを歌っているかわいい女の子が看板タレントだったが、家電メーカーと事務所のサイト以外でイメージソングを聴くことは1度もなかった。
田舎から出てきたハタチ超えたばかりの小娘も『プロダクションに所属している芸能人みたいなアタシ』気分を味わいたいが為に自身の絶望的な歌唱力のことなんてすっかり忘れて契約書に判を押したんだ。
前置きが長くなった。プロダクションに所属してすぐの頃、何だかよく解らないアダルトアニメのイメージソングのオーディションがあるからと、デモテープを録る事になった。そこで歌った曲が当時一番上手に歌え(ていると思ってい)た『ラムのラブソング』
この日の為にわざわざCDを取り寄せ何度も聴き、楽譜を買ってメロディーラインをキーボードでなぞり、カラオケで練習もしてきた。自分史上最大の努力をした渾身のラムちゃんである。精一杯のラムちゃんを歌いきると、目の前でマネージャーが頭を抱えていた。暫くの沈黙のあと引き攣った優しい顔でこう言った
『○○ちゃん(当時の芸名)は、歌手じゃなくてやっぱりグラビアアイドルになろっか?そういえばオッパイも大きいし』
録音したラムちゃんはデータの保存すらされず、代わりにヤンジャンの巻末の方の1ページを4分割された無名のグラドルが掲載されるページと、フライデーだかフォーカスの真ん中ら辺のフルカラーじゃないページのグラビア見開きと、そこら辺の本屋に売ってないような無名のパソコン情報誌の表紙を1度だけ飾らせてもらえた。
ラムちゃんを上手に歌えない私に、苦手な事を無理に克服する必要性の無さを教えてくれた頼もしい一枚である。
自身がモノノフ(ももいろクローバーZファンの総称)という事は常々公言してきているのだが、山村茜の転機としてもこのアルバムは一役買っていた。
近所のドン・キホーテの家電コーナーで液晶テレビが売られていたのだが、サンプル映像用に流れていたのがももいろクローバーZのMVだったのだ。ああこれがあの海老反りのアイドルの子達かとニワカですらない薄い知識を反芻しながら買うでもない液晶テレビを眺めていた。これがももいろクローバーZとの出会いである。
帰宅をしても先程のMVが頭を離れず、モノノフと名乗っていた友人に連絡をしてみると、だったら是非コレを聴いてみてくれ、と貸してくれたアルバムがこのアルバムだった。同時に数週間後に控えたていたももクロのライブに誘ってくれた。
アイドルのコンサートなんてモーニング娘。以来である。借りたアルバムで予習をしていざ迎えた当日、小柄な女の子達5人が底抜けの明るさで、何処にそんな体力があるのかと想える程の全力のパフォーマンスを繰り広げていた。
何が何でもみんなを笑顔にしたいという、執念にも似た勢いでステージを駆け回る彼女たちに、クソチョロヲタの私は完全に落ちてしまった。
誰かを笑顔にする為に全力のステージを届ける。これは僕がずっと念頭に掲げているスローガンでもあって、それはももクロの影響他ならない。
あの日ももクロのライブに誘ってくれた友人と来る日も来る日も同じMVを流し続けてくれていたドン・キホーテには深く感謝をしている。
言わずもがな、ももいろクローバーZ/行くぜっ!怪盗少女の替えu…いいや、なんでもない。
かつてグラビアアイドルをやっていた後期に、今よりももっとずっと全く売れていない地下アイドルをしていた時期がある。当然自身の歌唱力がアレな点は理解していたので誘われるまま始めてしまったものの、そう長く続ける事なく風俗嬢にジョブチェンジしたのだが、風俗10年選手になった頃、また人前に立つ機会に恵まれてしまった。
流石にもう全く若くも何ともないオバサンになっていたのでライブ活動をするつもりは殊更なかったのだが、誘われてスケジュールが空いているとなんでもホイホイOKしてしまうアホな僕は、あれ程人前で歌っていいレベルではないと自覚しながら、結局またステージの上で下手くそな歌を披露していた。
断りゃいいのにお誘いを受けるとまたアホみたいにブッキングを埋めてしまう僕は、そろそろいい加減気がついていた。
僕はステージで歌が歌いたいわけではなくて、ここから誰かを笑顔にしたいのだと。
しかし僕は顔面偏差値が圧倒的に高いだとか、自身で曲を作る才能があるだとか、じゃあせめて若いんだとか、そういう歌唱力をカバー出来るだけのセールスポイントを何一つ持ち得ていなかった。
どうにかこの下手くそな歌を誤魔化せる術は無いものかと考えついたのが、既存曲の歌詞を下ネタにすり替えて、歌詞の内容に気を取らせて歌の下手さ加減に意識が行くのを中和させる、という作だった。
虎の威を借る狐というよりも、もはや原作レイパーである。
幸いにしてこんな下衆な替え歌を作ってくる馬鹿者は他に存在しなかった事もあり、ステージで誰かを笑わせるという欲求を満たす事が出来るようになった。
このやり方にたどり着いた一作目が、インモラリスターRの前身ユニット、インモラリスターで歌っていた『イクぜ!快感少女』だったのである。
この詩を書いていなかったら、今のインモラリスターRは存在していなかったし、そこそこカラオケが上手い程度に中途半端な歌唱力があったら、このやり方には辿り付けなかったし、色んな意味でこの歌は転機の曲なんです僕にとっては。
尚、現在ソロで歌わせて頂いている『イクぜっ!快感少女』は当時のものをベースにソロ用に歌詞の一部を差し替えてあります。
ここまで色々長々と語って来た結果、結局自分に一番転機を与えてくれたのは、間近でステージを見せてきてくれたバンドマンやアイドル…日頃共にライブシーンを盛上げている仲間たちだったという事実にたどり着いた。
…なんて言い出すと、急に人が丸くなったような事言い出しやがってこいつ何処か悪い病気なんじゃなかろうかと疑われてしまいそうだが、否、大変健康である。
学生時代にあまりいい思い出のない僕が、アラフォーになってようやく居場所を見つけたような感覚がある。40過ぎても時にはガチで喧嘩をする人や、毎回酒に溺れてしまう人、意外とみんな想像していたような大人になんかなっていなくて最高に楽しくてたまんなく居心地がいい。
自分自身が普段立っているステージで魅せてくれるからこそ、パフォーマンスにもMCにも感動だったり感化だったり感激させられてしまう。
ももクロが億単位かけて日産スタジアムでやっているライブは規模が大き過ぎて演出としては直接的な参考にはならない部分も当然多々だ。
そのてん、低予算だからライブハウスのキャパシティだからこその楽しみ方と楽しませ方を持っている仲間たちに、ここ数年は特に本当に色んなものを吸収させて貰っている。
そして多分今後もずっと。最高のライブをいつもありがとう!
毎回更新を楽しみにしていたFREEZINEの「人生の転機になった10の音楽」光栄な事にこの度お話しを頂けて寄稿させて頂くこととなりました。
がしかし、実際に思い返してみると、人生の転機なった10曲…これを挙げることに意外と難航してしまった。過去記事に掲載されている多くのバンドマンらはたくさんあり過ぎて10曲になんて絞れなかったと書いていたので、なかなか10曲を挙げられない自分に些かの焦りも感じた。
初めて買って貰ったCD、何度も聴いたアルバム、現場全通したアイドル…思い出の曲は多々あり、日常を彩ってくれたり励ましてくれたり慰めてくれたり寄り添ってくれた事はあれど、それが人生の転機になったかと言われると必ずしもそうではない。
そこで山村茜を造ったルーツはいったいなんだ?と幼少期から遡ってみると自分でも気がついていなかった意外な曲がターニングポイントとなっていたようだ。
とんねるずとももクロにステージの影響を受け、川本真琴と小室哲哉から詩を学び、あまり興味を抱けなかった曲たちからは、つまんねーと思った事には乗っからなくても人生大丈夫!という事を学んだ。
文章を纏める能力が乏しいのか、思い入れが強過ぎるせいなのか否か、過去最長の長文を寄せる事になってしまった。この長文に最後までお付き合い頂いて(そんな方が居るんなら)本当にどうもありがとうございました。山村茜の造り方として、面白おかしく読んで頂けていたら幸いです。
インモラリスターR運営兼リーダーを努める他、山村茜と膨張ボーイズボーカル、ソロ等多岐に渡り活動するも、パフォーマンスは誰もが知っている既存曲に碌でもない下ネタを乗せて歌い脱ぎ散らかすというスタイルに一貫している。
また自身の書いた替え歌については、廉価な後発品という意味からジェネリックと称している。
年間90本に近いライブパフォーマンスで汗と潮を撒き散らすが、全く歌が上手くならないという極めて珍しい才能を持つ。
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キャッチコピーは『その気になったら裸で触れ合える人妻風俗嬢タレント』