FEATURE
2021.02.02
FEATURE
2021.02.02
もしもその音楽と出会っていなければ、いまの自分はない。人は誰しもが、そんな人生の転機となった音楽を持っているもの。そこでこのコンテンツでは、各界のFREEZINEたちに、自分史上において転機となった10の音楽を選んでもらい、当時のエピソードと共に紹介していただきます。選ばれた音の並びから、人となりが見えてくる。
あれは確か小学3年か4年か、それくらいだったと思う。近所にレンタルCDショップならぬ、レンタルレコードショップがあり、友人と連れだっては徒然なるままに盤をディグるという、我ながら小生意気な小学生であった。そこである日出会ったのがこちら。インパクトの強いジャケに一目惚れしてほくほく顔で家に帰り、1曲目の「ブレへメン」に一発でノックアウトされたのでありました。純粋無垢な小学生が、サブカルバージンを奪われた瞬間でもありました。
あれも確か小学3年だったと思う。5歳年上の姉が中学校の英語の授業で教材として紹介されたいろんな洋楽を家で聴いてまして、たまたま聞きかじって出会ったのがこの曲であります。哀愁漂うバイオリンの音色と多重的なコーラスにノックアウトされ、当時カセットテープに吹き込んでは何度も何度もリピート再生していたことを思い出す。そうです、この1曲を境に、小学3年にして立派なビートルマニアになったのでした。
これも小学3年から4年生くらい。当時の私は「金管クラブ」という吹奏楽部的な部活動に勤しんでおりました。担当楽器はコルネット。奏者としてはさほど優秀ではなかったが、部としてはそこそこ優秀だったので「TBSこども音楽コンクール」にも出たりしてました。で、コンクールの議題曲として美人の辰野先生が選んだのが劇団四季の名作ミュージカル「CATS」だったわけです。審査員の耳目をひくために、みんなで猫耳カチューシャまでつけて演奏したなあ。結果、なんらかの賞に入賞し、当時の録音テープも持っていたが、度重なる引っ越しでどこかへ行ってしまった。この金管クラブでの体験から、クラシック音楽を好んで聴くようになりました。
これは確か多感で自閉症気味に育っていた中学生の頃。当時、野村さんという色白で胸の大きな同級生とよくつるんでいた。早熟だった彼女はいろんなカルチャーを私に教えてくれたのであったが、彼女がいち早く目をつけて紹介してくれたのが、当時インディーズで「東京ピストル」という事務所に所属していたBLANKEY JET CITYであった。初期に配布されたプロモーション用のビデオテープには、どこだかよくわからない廃墟のような場所で「CAT WAS DEAD」と「狂った朝日」を演奏する彼らの無骨な映像が収録されており、最後にバキューンという銃声と共に東京ピストルのロゴが表示されるのが印象的だった。最初はベンジーの声と見た目がちょっと苦手であったが、歌詞と世界観にノックアウトされた。その後すぐにメジャーデビューしてあっという間に人気者になったなあ。1995年8月26日・代々木公園野外ステージで行われたフリーライヴ『Are You Happy?』にはソロで参戦。群衆にもみくちゃにされ、サングラスをバキバキに踏み潰されたという青春の1ページであります。
あれも確か中学生の頃、思春期で現実世界とうまく折り合いをつけられなかった時代です。既成の秩序や常識の破壊を志す芸術活動「ダダイズム」や、超現実を描く実験的な芸術運動「シュルレアリズム」に活路を見出し、国内外の前衛的な作品を片っ端から漁っては観念の世界で遊んでました。いやな中学生だ。その頃に出会ったアーティストがジョン・ケージ。ステージに上がって4分33秒、一切ピアノを弾くことなく、次第に大きくなっていく聴衆のざわつきを作品として仕上げるという、これまた観念的な作品ですがとても痺れましたね。それから美術部に入り、しょうもない絵を時々描くようになりました。
これも確か中学生だっただろうか。X Japanがインディーズ時代に「X」を名乗っていた頃に出したインディーズ1stアルバムである。当時はYOSHIKIのルックスとドラムプレイに大いに衝撃を受け、ドラムに興味を持ったきっかけにもなった。その後、高校で軽音楽部に入部し、ドラムを独学で始めるものの、折からのバンドブームでプリプリやらパーソンズやらをコピーさせられて辟易したという思い出がございます。
あれも確か中学生の頃。FMラジオを聴いていたある日、この曲のイントロが突然耳に飛び込んできて、その甲高いギターのカッティングにノックアウトされたのでありました。U2というアイルランドのバンドの曲であることを知り、その後は来日公演にも行ったり、ボノのコスプレをしたりと、なかなかの勢いでハマったのである。荒涼としたアイルランドの風景を彷彿させる(行ったことないけど)U2のデビューアルバム「BOY」は今でも愛聴しております。アイリッシュウイスキーやシングルモルトを好きになったのも、U2の影響が多少なりともあるかもしれません。
これは高校の頃。中学の自閉症を引きずったまま進学した私は心が死にかけてまして、見かねた両親がアメリカ・ワシントン州への短期ホームステイに送り込んでくれたのです。これが実に功を奏した。すっかりアメリカの陽気なライフスタイルに溶け込んだわたしは、お小遣いで奇抜な柄のTシャツを買い求め、観光に出かけるまでに回復した。街中でこのTシャツに目を留めたアメリカ人に「Nice Tシャツ!」と声をかけられたが、そのTシャツに描かれていた人物のことはまったく知らなかったため、「これ誰?」って聞いたら、ジミヘンだとおっしゃる。これが噂のジミヘンかい!するとそのアメリカ人から「音楽聴いたことないのにTシャツ着てるなんておかしな子ね」みたいな感じでディスられまして。確かに、と思い改めてジミヘンの盤を聴いたら、これまた一発でノックアウト。20代にしてこの才能と色気、なんて恐ろしい子!・・・そしてジミヘンの音楽も知らずにTシャツだけ着てた自分を猛烈に恥じた。
これも高校の頃。ホームステイを経て人付き合いがそこそこできるようになったわたし。軽音部で仲良くなった船木さんはレスポール・カスタムを弾くメタル女子であり、彼女の幼馴染の田家さんというおもしろ女子も音楽マニアで、確か当時から自分のバンドもやってたかな?彼女らに紹介されてこのアルバムと出会い、みんなでわちゃわちゃと東京ドームの来日公演に行って酒飲んだりしたなあ(未成年)。なお、スラッシュのソロ公演にも通い、感動のあまりボロ泣きしたのはヒミツです。この話にはちょっとした後日談がありまして。この田家さんは、バンド「クロメ」のドラマーぎっちゃんと、なんと職場仲間だったんですって。世間狭い。
20代後半、あまり詳細なことは書けないが、1回目の結婚をしていた頃にうっかり不倫してしまい、その不倫相手から教わったのがこの曲。ライヴにも行って衝撃的なステージングを体験しすっかりハマりました。その後、当時の夫に不倫がばれ、離婚するに至ったわけですが、不倫相手とも半年もたたずに別れました。で、離婚して贖罪の身になったらどういうわけかもう一度ドラムが叩きたくなり、with 9というバンドメンバー募集サイトにドラマーとして加入希望を出したところ、とあるモノ好きな人から連絡をもらったので、上野の居酒屋で顔合わせをすることになった。で、初めての顔合わせの日に「インビシのライヴ面白いよ!」と力説したのを覚えている。その顔合わせの相手とは、他でもないVery Ape兄弟であり、弟の方はいまの夫である。
「3つ子の魂100まで」「9歳(小学3年くらい)が人生の分岐点」などといった先人の教えがあるが、それを地で行っていると感じました。何でも勢いよく吸収できる若い内に、制限かけずいろいろ直感のままに探求させてくれた両親に改めて感謝したい(小学3年の時にエロマンガ描いてたのは怒られたけど)。直感を信じる性質のため、良くも悪くも転機はたくさんありましたが、すべて人生の肥やし。これからも直感や違和感を大切に、たくさんの転機を楽しみながら生きていこうと思います。
都内の広告会社に勤めるクリエイティブディレクター兼コピーライター。
ときには、戦慄のオルタナティヴロックバンド「Very Ape」でドラムを叩き、ときには、WEBメディア「FREEZINE」で企画+取材+構成+イラストを担当。