PEOPLE

2018.01.30

小曽根 幸夫インタビュー | やるべきことを、徹底的にやり抜く。もしダメになっても、納得できるように。

家族全員が、そろって経営者。
独立以外の発想はなかった。

── 編集部(以下、編):小曽根家は、ご家族全員が経営者や個人事業主と伺いました。

小曽根 幸夫(以下、小曽根):父は不動産会社、母は化粧品会社を経営していて、幼い頃から家族で外食するときはいつも、取引先の知らないおじさんが同席している、という、いま思えば不思議な環境でした(笑)。もちろん余所の家でもそうだとばかり思っていましたよ。進路を考えた際にも、いずれは独立するという一念でしたので、大学に行く4年がもったいないと考え、上京してアルバイトをしながら調理師専門学校に進学する道を選択しました。アルバイト代をつぎ込んで100軒以上のお店を食べ歩いてはメモを取る、という青春時代を過ごしましたね。なお、僕は3人兄弟の末っ子なのですが、長兄はいま青山でIT&デザイン事務所を、真ん中の兄は六本木でピッツェリアを経営するなど、家族全員が経営者として働いています。

お金や経験はなくても、
飛び込むことはできる。

編:21歳で単身イタリアへ。きっかけは何だったのですか?

小曽根:六本木のリストランテで修行して3年目を迎える頃でした。ずっとイタリアに行く機会をうかがっていたのですが、ちょうどイタリアから帰ってきた先輩から渡伊の話をいただき、もう次の週にはリュックひとつで飛び立っていました。中身は、現地のリストランテを食べ歩きできるように準備した革靴とスーツ、そして現金5万円くらいですかね。お金がないとか、経験がないという理由で尻込みする若い方も多いと思いますが、ほんのちょっとの勇気と熱意があれば、なんとかなるものです(笑)。まずは可能性に目を向ける。振り返ってみれば僕の人生は、その連続だったような気がします。

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「前菜ブリュレ」という
前例なき世界への挑戦。

編:修行から独立までのいきさつを伺えますか?

小曽根:イタリアで5年、イギリスで1年、二ツ星・三ツ星のお店を回って腕を磨いたり、ソムリエの勉強をしたり、苦しいけれど楽しい日々でした。明確な目標もあったので、自分なりにとても充実していたと思います。ただ、年を重ねるほどに就労ビザや社会保障や医療面の問題など、海外での生活の不安が大きくなって。じゃあ日本で基盤を作ろうと決意し、30歳で独立することを目標に、帰国後はいったん青山の高級リストランテに勤めました。でも、本場仕込みのイタリア料理に対してお客様の反応が芳しくなく、疲れちゃったんです。そこで、妻の実家がある鎌倉で最初の店を持つことになりました。鎌倉って山も海もあって、何百年もの歴史を持った寺院などがたくさんある。まるでイタリアみたいだなと思って。でも、最初はリストランテじゃなかったんです。せっかくやるなら誰もやっていないことをやろうと。それに、いきなり大きな借入金を抱えて設備投資することにも抵抗があったので、まずは手堅く5坪の店を借り、前菜をひとつのカップの中で再現する創作ブリュレの販売を始めたんです。

独立後の紆余曲折を経て、
「フェリーチェ」開店へ。

編:独立そのものより、独立後が辛いという話をよく伺います。ブリュレのお店は成功したのですか?

小曽根:ブリュレは通常、甘いのが当たり前。前菜のブリュレは、狙いがなかなか伝わらない上に、作る手間もかかります。どんどんスイーツの方のブリュレの需要が増えていくというジレンマに悩まされていました。そんな時、たまたまつくったロールケーキが大ヒットしまして。デパートにも出品するようになり、寝る間も惜しんで作っていたら救急車で運ばれる羽目に。正直、30歳で独立、という目標を果たしてしまった後は、次の目標がない状態になってしまって。燃え尽きた感に襲われたんですよね。次のビジョンが明確でなかったというか。本当に30代は葛藤の連続でした。でも家族もいるし、次のステップを考えていかないと、と自分を奮い立たせ、リストランテへの方向転換を目論んでいました。その矢先に、鎌倉駅からほど近いお寺の山門内の物件を紹介いただいたんです。内見しに行ってみたら一発で気に入ってしまって、それが「リストランテ鎌倉フェリーチェ」の始まりでした。

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原価率は40%超。それでも、
納得できる本物の料理を。

編:その後、稲村ガ崎の丘の上に移転した「リストランテ鎌倉フェリーチェ」ですが、こだわりや営業方法とは?

小曽根:この立地、きっと一見では来られないですよね?その隠れ家風な雰囲気と、眺望の良さが気に入ったんですけれど。それにいまどきサイトもないし、「食べログ」もやっていないし、営業は本当に苦手です。でも、誰でもいいから来て欲しいとも思っていなくて。僕がこだわっているのは、イタリアの本場の味を、イタリアから空輸した食材と伝統の調理方法を使って忠実に再現すること。食材の原価率は、高いとされる30%を超えて40%ほど。自己満足かもしれませんが、本物を大切にしたいんです。それならダメになったときにも自分で納得できる。一皿一皿、命をかけて本物のイタリア料理を真剣に作っている、それをわかってくださる方に食べて欲しいんです。「フェリーチェ」とは、イタリア語で「幸せ」の意味。食べてくださる方に幸せや驚きを届けたい、という思いからつけました。それに僕の名前も「幸夫」ですしね(笑)。

イタリア現地で得た感覚を
鈍らせないために。

編:2018年で7年目を迎えるフェリーチェですが、開店後10年続く店の割合は1割とも言われています。スキルアップはどのようになさっているのですか?

小曽根:イタリア修行中、いろんな地方の料理を勉強したくて、稼いだお金をほとんど注ぎ込み、北から南まで徹底して食べ歩きました。そのとき叩き込んだ味と記憶を頼りに、各地で継承されてきた伝統の作り方を踏襲して再現するのが僕の料理スタイル。いわゆる創作という概念がない。だから、そのときの感覚を鈍らせないように、料理雑誌などは一切読まないようにしているんです。ゆくゆくは1年のうち3ヶ月はイタリアに滞在する生活サイクルに変えて、本場の味をさらに吸収して体得し、フェリーチェの料理に活かしていきたいと考えています。仕事はもちろん、プライベートでも、ずっと「本物」にこだわり続けたいですね。

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家庭を守りながらも、
やりたいことは譲らない。

編:ご家族をもったいま、利益も無視できないと思うのですが、ご自身のこだわりをどのように追求されているのですか?

小曽根:もちろん8歳の娘には幸せになってほしいし、家族に不自由はさせたくない。赤字を出さない程度の収益で、コツコツと実直にやっています。また、妻にはお店を手伝ってもらっていますが、本来はオペラ歌手。彼女の活躍の舞台を広げるためにお店で歌ってもらっています。プロとして互いに尊敬し合える関係だからこそ切磋琢磨もできるし、僕の姿勢にも共感してもらえるのだと思います。妻もイタリア生活が長く、向こうで同じものを見て培った共通感覚があり、僕が提供したい理想のサービスを体得してくれている、最大の理解者でもあると思います。それに、シェフは夢を売る仕事。稼ぎは自分への投資として使うことも大切です。そもそも仕事でやりたいことができないのは意味がない。ダメになったらまたその時考えようと覚悟を決めています。

1日のタイムテーブル

  • 7:00家族で朝食
  • 8:00ランチの仕込み開始
  • 15:00遅めの昼食
  • 16:00横須賀・佐島漁港へ買い付け→ディナーの仕込み開始
  • 21:00営業終了・翌日の仕込み
  • 23:00家族団らんのひととき

横須賀・佐島漁港で水揚げされた、新鮮な黒ムツ・金目鯛

イタリアにも持参したという、約20年にわたり愛用しているナイフ類

イタリア協会認定ソムリエの確かな目で、料理に合うワインを厳選して提供

福を招く商売繁盛の守り馬。実は8歳の娘さんが描いた抽象画なのだそう

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PROFILE

小曽根 幸夫
(おぞね さちお)

2011年 鎌倉・妙本寺山門内に「リストランテ鎌倉フェリーチェ」オープン
2016年 「リストランテ鎌倉フェリーチェ」を稲村ガ崎へ移転
     
「リストランテ鎌倉フェリーチェ」オーナーシェフ。
イタリアソムリエ協会認定ソムリエ。
六本木のリストランテで修行の後、21歳で単身渡伊。トスカーナ、カンパーニャ、ロンバルディアなど、イタリア各州およびロンドンの星付きリストランテで約6年修行を積んだ後帰国。ブリュレ専門店を経て2011年、自らがオーナーシェフを務める「リストランテ鎌倉フェリーチェ」をオープン。イタリアから週2回空輸する肉・野菜や、横須賀・佐島漁港で獲れた地の魚をふんだんに使用するほか、パスタはすべて手打ちするなど、本場仕込みの本格的なイタリア料理と厳選のワインを提供。その妥協のない味と人柄に惹かれ、地元・鎌倉をはじめ、全国各地から訪れる客が後を絶たない。

「リストランテ鎌倉フェリーチェ」
ADDRESS:神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1-17-23-8 2F
(江ノ島電鉄「稲村ヶ崎」駅より徒歩6分)
TEL:0467-23-2678(要電話予約)
LUNCH:11:30~13:30(L.O)
DINNER:18:00~20:00(L.O)
毎週月曜定休

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