FEATURE

2025.02.08

フランク・フゥの人生の転機になった10の音楽

FREEZINEが選ぶ「人生の転機になった10の音楽」シリーズ。
第37弾は、バンド→(Yajirushi)のvo/gフランク・フゥ!

もしもその音楽と出会っていなければ、いまの自分はない。人は誰しもが、そんな人生の転機となった音楽を持っているもの。そこでこのコンテンツでは、各界のFREEZINEたちに、自分史上において転機となった10の音楽を選んでもらい、当時のエピソードと共に紹介していただきます。選ばれた音の並びから、人となりが見えてくる。

Led Zeppelin『Led Zeppelin Ⅱ』

結婚していたことがある。(今でも仲はいい)その彼女が好きだったのが、レッド・ツェッペリンだった。
俺はもともとポップス好きで、小学校のころからFENの全米TOP40を毎週チェックするませたガキだった。だから、ツェッペリンのことも、ちゃんと知っていたのは「天国への階段」くらいだった。
生活に音楽は欠かせない。料理中、くつろぎ、そして朝。家庭にはいつも音楽があった。
忘れもしない、新居1日目である。荷解きをしながら妻が、「これ聴いていい?」と言って、1曲目”Whole Lotta Love”をかけた。
俺は、ひっくり返った。文字通り、ひっくり返った。ロバート・プラントのいきなりのシャウト。ボンゾのズタドタドラム。音圧。情熱。知性。狂気。音楽のすべてが、あったとさえ感じた。
この文章は、レコードガイドも兼ねていると思う。読んだ諸兄は、すぐさま、ストリーミングでもなんでもいい。是非、聴いてみてほしい。全曲素晴らしいから。
俺は当時、なんとなく、音楽で食いたいなぁと、ふらふらした考えを持ちつつ、塾講師のバイトをしていた。しかし、この時以来、俺は、音楽をやることに腹を括った。俺を真人間にしてくれたのは、彼らのおかげと言っていい。
そして彼らは、20年後に、もう一度、俺の前に現れることになる。

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Everything But The Girl『Walking Wounded』

90年代末、俺は横浜にいた。待望の自分のアルバムを、妻と二人のユニット形式で出すことになったのだった。みなとみらい近くのスタジオ。とはいえ俺はまだ、駆け出しのペーペーであり、不安に思ったレコード会社は、プロデューサーをつけた。この御仁がまた大変センスが良く、俺に何くれとなく、「参考資料用視聴アルバム」を推してくれた。
俺たちのバンドはテクノ/エレクトロニカだった。行きがかり上、俺は今で言うDTMをやっていた。Portisheadというバンドをちょっと好きになったり、頼まれ仕事の打ち込みをやらねばならなかったりで、そうなった。
彼の勧めたものはみな良質であった。
Massive Attack, Bjork, Aphex Twin, Tricky, Atari Teenage Riot, Jeff Mills…どれもこれもが、俺の音楽の糧になった。だからこれらすべてが、転機の曲と言えばそうなのだが、わけてもエヴリシング・バット・ザ・ガールのこのアルバムは、仰天した。
彼らのことは、以前からちょっと好きだった。アコースティックな風合い、切ない詞、急く愛を唄うトレイシー・ソーンが好きだった。だが、彼らは突如として、その抒情をドラムンベースに載せた。これが見事にはまって、名盤になった。テクノの構築美、その完ぺき主義ゆえの、爆発力の不足を、ソーンの歌声が、全部凌駕した。夫ベン・ワットのドラムンベースがこれまたよかった。俺たちは、二人して、聞き惚れた。アルバムの引用元になったのは、言うまでもなかった。

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Boom Boom Satellites『Photon』

2000年代初頭、俺は新宿にいた。あるテクノのコンテストで優勝したのだが、その時の曲が、巡り巡って、ブンブンサテライツの耳にとまった。そして何曲かセッションをしたのち、俺はヴォーカル川島道行とともに、このアルバムの元歌、それは主にテーマ/詞に関わることだったのだが、を一緒に作ろう、ということになった。
現場は主に川島の家、新宿と大久保の間の小さなアパートだったように思う。
いろいろ話し合った。死生観。青春。別れ。思い出…そのすべてが、おそらく川島の不治の病に関係あることは、知っていた。。俺は主に聞き役に回り、時に、的確不的確ともども、一所懸命アドバイスをしたものだった。そのたび、彼は頷き、遠くを見、泣き、笑った。呑気に見えて繊細な男だった。俺が彼らのプロジェクトを離れて何年かたって、錦糸町で一緒に飲んだのが、彼を見た最後だった。
このアルバムには、苦しかったその時の彼の思いが、いっぱい詰まっている。
辛くも、美しいアルバムである。
(よかったら、彼の最後の歌声”Lay Your Hands On Me”も聴いてみてほしい。死の直前の乾坤一擲、素晴らしい歌が聞ける)

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Madonna『Music』

2000年代中頃、俺は船橋にいた。自宅でミックスをしていたからである。
ブンブンとの仕事が評価されたからか、俺はある音楽事務所に引き抜かれた。「お前の腕を歌謡曲に活かせ」というわけである。手始めは、事務所の重鎮、大友康平率いるハウンドドッグの再生、ということだった。
彼らは、汚い言葉だが、それまでの数年、鳴かず飛ばずの体たらくであり、メンバー間の亀裂も囁かれていた。「彼らの起爆剤になってくれ」事務所の社長は言った。
テクノの俺に頼ったということは、テクノと和声ロックを融合させろということか。俺はこう思って、たくさんの音楽を渉猟した。で、やってきたのがマドンナだった。
Music。素晴らしい打ち込みだった。それまでテクノと言えば、4つ打ちハウス、あるいはトリップホップと相場が決まっていたのだが、ミドルテンポ。変なスネアの打ちどころ。巧みな7thのノイズ。どれをとっても、俺には新鮮に聞こえた。おまけに、この感じはギターに合う、と思った。それでデモを作って事務所に聞かせたら、素晴らしいとなった。
これが契機となって、俺はハウンドドッグのアルバムを丸々1枚プロデュースすることになる。報酬は大金であった。まさに人生の転機だった。

ところで、この時期俺には、もう一つの転機が待っていた。J-POPの来襲である。俺が業界を辞めたのは、この甘ったるい響きに耐えられなかったからだ。

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John Frusciante『Shadows Collide With People』

2000年代末、俺は志木にいた。ハウンドドッグで得た大金と、事務所の援助で俺は、埼玉県志木市のマンションの一室を借りて、スタジオに改造した。自由なご身分を利用(悪用か笑)して、事務所の新人のプロデュース兼、俺自身の曲を作るためである。
DTM時代の俺は、テクノに心酔しながらも、テクノの構築美、完璧主義に嫌気がさしてもいた。もっと自由な音楽を作りたい。この時俺はツェッペリンを思い出す。だが、独りでは無理だ、いずれバンドを興そう。だがそれまでは、ソロだ。いずれにしても俺が歌わねばならぬ。そうだ。アコギとシンセだけで曲を作ろう!
だが当時、俺は、自分では歌えないと思っていた。同時に、ロバート・プラント、トレイシー・ソーンを通じて、「歌が歌えないと始まらない」とも思っていた。歌わねばならない。だが、どうやって?
このアルバムは、そんなときに現れた。フルシャンテは、諦めを、悲しみを、その果ての愛を、本人のままに歌った。これでいいんだ。俺のままでいいんだ。1曲のヴォーカルに数十トラックも使って、あれがダメだこれもダメだと、欠点を修正しつつ未完成だった俺の歌。何度やってもダメだった俺の歌は、聴いた直後のわずか1テイクで、完成した。
Shadows Collide With People。超私的な、美しい曲ばかりである。ほとんどが、ギターと簡単なバンドセットだけ、ソロも何もない。わずかに単音シンセの味付けがあるだけの、素朴なアルバムだ。でも、いい。しんみりいい。トレント・レズナーとは正反対の、引きこもった孤独が、記憶の中に、愛する人を求める姿が、そこにある。

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Bob Dylan『Highway 61 Revisited』
The Band『Greatest Hits』

2010年、俺は下町にいた。金がなくなり、スタジオを引き払って、音楽は現在のバンド、→(Yajirushi)の準備段階だった。
歌声は、フルシャンテで満足できなくなっていた。自分のままでよい、というのは分かったが、彼のようではか細すぎる。俺はもっと荒々しいのがやりたかった。
その時、俺に大きなヒントを与えてくれたのが、この2枚のアルバムだった。
ボブ・ディラン。彼もまた、自分の声に自信がなく、どう歌えばいいか悩んでいたと聞く。その時、何某かの声を聴いて、これでいいんだと居直れた。ジミヘンも、ディランの歌を聴いて、これなら俺にも歌える、と思ったそうだ。
Tombstone Blues。彼の放り投げるような歌い方が、俺の心にしっくり来た。
The Ballad of a Thin Man。毒々しい、唸るような声。
これだよこれ。これでいいんだよな。俺の方向は決まった。ただし、その方法が、分からなかった。

そんなある日、ザ・バンドのコピバン参加募集広告があった。ファンだった俺は、飛びついた。飛びついたはいいが、レヴォン・ヘルムの真似はとてもできない。いきおい俺はディランに習った、「俺自身のまま且つ放り投げるような歌」で練習を繰り返したが、何かしっくりとこない。途方に暮れた末に、もう一度、このベスト盤を聴きなおした。
“Acadian Driftwood”。アメリカ/カナダの住民、アカディ人の受難を、まるでそこにいるかのような描写で歌った、名曲である。
“The Night They Drove Old Dixie Down”。南北戦争における、南軍敗残兵の受難を、まるでそこに…
そうか。歌には、再解釈が必要なのだ。シロートの体当たりを芸事に昇華させるには、一度その場を離れて、鳥瞰的に見つめる、神の眼が必要だったのか。
てなことを閃いて、嬉しがった。根拠のない自信を与えてくれた、ありがたい2枚である。

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The Rolling Stones『Blue & Lonesome』

2017年、俺は足立区某所にいた。東京の北のはずれのスタジオで、→(Yajirushi)2枚目のアルバム”Cry”を録音していたのだった。
パートナーである音楽の匠、H氏とは、録音の間にいろいろ話をした。ある日、彼が、「これがいいんですよー」と言って、1枚のCDを聴かせてくれた。1曲目”Just A Fool”。俺は、文字通り、椅子から転げ落ちた。ストーンズはもはや、単なる営業バンドと思っていた。それが、ミック・ジャガーのあの歌!キース・リチャーズのあのギターソロ!ローファイで、艶やかで、愛おしい。俺は、それまでの思いを謝りたくなったと同時に、恐怖心を覚えた。これまでのいろんな歌は、俺の栄養にはなったがそれはあくまで、食物に過ぎない。だがこのアルバムは、現実に俺の前に立ちはだかる、倒さねばならぬ敵だった。これはえらいことになった、これを倒せるか?そう思った。スタジオを出るや否や、近くのコンビニに走って、ギフトカードを買って、スマホにダウンロードした。全曲、生々しい、ストリートミュージシャンが、そこにいた。
今思えば、届かないかもしれないが、背を追う目標がもうひとつできた、嬉しい瞬間でもあった。

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Led Zeppelin『Led Zeppelin Ⅲ』

2022年、俺は再び、足立区にいた。3枚目のアルバム”Brought Back Without Souvenirs”の録音に入ったのだった。このアルバムは、こんな風にしたい、というのが、まさにこれである。
全曲の約半分を占める、アコースティックサウンド。カントリーライクな風合い。ユーモア。シャウトもちゃんとある。移民の歌。フレンズ。ギャローズ・ポール。セレブレーション・デイ…。抒情豊かなこのアルバムは、前作Ⅱと好対照だった。俺の好みに相棒Kumeを引っ張り込んで、→(Yajirushi)の守備範囲を大きく広げたかった。前作は、ある女性との想い出をやや、ペシミスティックに語ったアルバムだったので、今作は楽しいものにしたかった。そして、ペーソスもあるアルバムにしたかった。
Led Zeppelin Ⅲ収録の”Gallows Pole”とは、西部劇に出てくる絞首刑台のことである。走れメロスよろしく、彼の命乞いのために金銀を持って走ってくる友人。それでも刑は執行される。聴衆の笑い声まで入れた、おかしみと悲しみが入り混じった、名曲である。傑作以外の言葉が見つからない。こういう曲を作りたかった。
ゼッペリンとストーンズ。負けを覚悟の一太刀を、H氏とKumeと三人で、研いだことが思い出される。

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→(Yajirushi)『Brought Back Without Souvenirs』

そして2024年。読者諸兄、俺たちはこれを作った。

買って聴いてね。

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改めて「人生の転機になった10の音楽」を選んでみて。

いい企画である。俺自身の棚卸になった。
付記しておく。
これらは、必ずしも、俺にとってのベストアルバム集ではない。中には、人生の転機になっただけで、今では全く聴かないものもある。だが、感謝はしている。これらの音楽がなかったら、今の俺はなかったと、これは心の底から言える。
アンダーグラウンドロックの世界で未だに主流である、グランジ/オルタナティヴ/Dr.Feelgood系の音楽を、リアルタイムで、俺は全く通ってきていない。すべて、後聞きだ。だから、後聞きゆえの批評眼でこれらの音楽を聴いてきた。そのシニカルな目でも、ニルヴァーナは、心に響いた、演ろうとは思わなかったけれど。
大人になってから、「これはすごい!」と思い直したアーティストはたくさんいる。テリー・ホールがその代表格だ。子供のころ、スペシャルズは全くピンと来なかった。アンダーワールドもブライアン・フェリーもジョン・レノンでさえもそう。それだけ俺は、生粋のポップス野郎だったということだろう。
唯一(唯二か笑)、ずーっとそばにいたのは、デイヴィッド・バーンと、ポールだけだったように思う。

PROFILE

フランク・フゥ

東京生まれ。大学卒業からセミプロ活動、短い会社員生活、芸能音楽事務所の専属プロデューサーを経て、晴れてフリーター兼ミュージシャンになる。2010年、現在のバンド→(Yajirushi)を着想、6年間のギター探しを経て、2017年に本格始動。同年1stアルバム「→」をリリースした。2019年に現在のドラマーKumeがパーマネントメンバーとして加入、2020年2ndアルバム「Cry」をリリース。2024年、3rdアルバム「Brought Back Without Souvenirs」を、ドイツGet Your Genki Recordsよりリリース。現在も飛躍と墜落を繰り返している。