BLOG
2023.03.07
シンプルで大きなものが怖い
文:清水 里華
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2023.03.07
文:清水 里華
コピーライターという職業柄、クライアントのCI(コーポレート・アイデンティティ)策定をお手伝いすることが多い。
コーポレート・アイデンティティとは、ひとことで言えばその会社の社会的使命を定め、それを実現するためにどんな会社であるべきか、そのためにはどんな行動を日々行えば良いか、をシンプルに明確化し、組織をひとつにまとめ未来へ向かう原動力となるものである。(ひとことじゃなかった)
言い換えるならば、その会社が目指す「北極星」を一緒に探すことに近いかもしれない。大きな目印を見失うことがなければ、道に迷いにくいからだ。よって大きくてシンプルで、強度のあるものの方がいい。
なるほど。では「大きくてシンプルなもの」とは、たとえばどんなものだろう?
という点へ考えが及ぶのだが、何を隠そう、私は昔からどういうわけか「大きくてシンプルなもの」がとても怖い。たとえば、早朝ランニングに出かけようと玄関のドアを開けたとき、目の前に生まれたての巨大な満月がどーんとあると、心臓が飛び出しそうになる。目を逸らそうとしても、どこまでもその無駄なデカさのままぴったり着いてくる。お前いったいどういうつもりだ。
さらには、近づくほどに稜線を果てしなく伸ばす富士山や、太陽系の中で木星・土星などが見せつけてくる常軌を逸した巨大さには、不気味さしか感じ得ないのである。
こんなことを感じるのは私だけなのだろうかと思っていたある日、富士山にまつわる2編の名作と出会い、「だよね!?だよね!?わかるぅ〜〜」と、勝手に救われた気持ちになったのである。そこで、この誌面をお借りして、その2作品のさわりをご紹介させていただこうと思う。中には、この文章を読んで溜飲を下げる読者さまもいらっしゃるのではなかろうか。一作目は、名著「日本百名山」を後世に遺した深田久弥氏の文章である。
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富士山はただ単純で大きい。それを私は「偉大なる通俗」と呼んでいる。あまりにも曲がないので、あの俗物め!と小天才たちは口惜しがるが、結局はその偉大な通俗性に甲を脱がざるを得ないのである。
小細工を弄しない大きな単純である。それは万人向きである。何人をも拒否しない、しかし又何人もその真諦をつかみあぐんでいる。
(略)
地面から噴き出した大きな土のかたまり、ただの円錐の大図体に過ぎぬ山に、どこにそんな神秘があり、どこにそんな複雑があるのだろう。富士山はあらゆる芸術家に無尽のマチエールを提供している。
(略)
富士山は、万人の摂取に任せて、しかし何者にも許さない何物かをそなえて、永久に大きくそびえている。
(出典:「富士山」/新潮文庫「日本百名山」収録)
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なんて見事に本質を突いた名文であろうか。さすが山の専門家。
そして二作目は、こちらも名著「麻雀放浪記」を後世に遺した色川武大(阿佐田哲也)氏の文章である。深田氏の指摘したポイントと似ていつつも、なかなかにラディカルな持論を展開されている。
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富士山が怖い。このくらい異形なものは他にちょっと考えつかない。今でも新幹線で山裾近くをとおるたびに、どうしてこんな魔境のようなところに平気で人が住むような気になるのだろうかと思う。あれはもうあの辺の才能を無駄に吸いとっているのであり、放置しておけば、界隈からすぐれたものが生まれる余地はない。即刻、切り崩しかき均してしまうがよろしい。夜、何か用事でもあって表に出ると、うわッと富士山。見まいとしたって無視はできない。家かげにでも入ってほっとひと息、しかしひと足歩けば、うわッとそこにある。背後からのしかかられるようだし、どうすればあれを忘れられるという方策がたたない。月明の夜ならば一段と魔の風景だろう。
(出典:「門の前の青春」/文春文庫「怪しい来客簿」収録)
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気持ちいいほど賛同の嵐。まあ、何もぶっ壊さなくとも、と思いつつ。
しかしこの「単純すぎる巨大なものが放つ不穏な空気」がいやだと思うこの感覚は、何かと似ているなあ、と思っていたらあれだ。ジョージ・オーウェルのディストピアSF小説「1984」である。
「偉大なる同志は見張っているぞ」と大書された党首のポスターが街中に張り巡らされ、「偉大な兄弟」に市民生活のすべてを双方向テレビやマイクで監視されている絶望的な感覚に近くないですか?
しかし、あまりにちっぽけすぎる人間は、シンプルで大きなものからは、なかなかどうして逃れられないのかもしれない。なぜなら私は今日も、早朝のランニングに出かけては満月を見るたびに「チッ」と舌打ちをし、デスクに向かったら向かったで、シンプルで大きなCI策定の作業に奴隷のように勤しむのである。無力の極み。