FEATURE
2021.03.19
FEATURE
2021.03.19
もしもその音楽と出会っていなければ、いまの自分はない。人は誰しもが、そんな人生の転機となった音楽を持っているもの。そこでこのコンテンツでは、各界のFREEZINEたちに、自分史上において転機となった10の音楽を選んでもらい、当時のエピソードと共に紹介していただきます。選ばれた音の並びから、人となりが見えてくる。
小学1年生。特にカルチャーや芸術に興味のなかった両親の元で育ち、テレビから流れてくるポップミュージックだけが自分の知りうる音楽の全てだった。そんな中、我が家にも遂にCDコンポが導入され、家族4人で駅前のTSUTAYAへ。自分は好きだったアニメやテレビ番組の主題歌を探し回り、母は松田聖子、妹はモー娘。父はTUBEやハウンドドッグを借りていたと思う。その父の選んだCDの中に尾崎豊のベストアルバムがあった。「静かにしていなさい」「行儀良くしなさい」「友達と仲良くしなさい」1曲終わるごとに、大人に言われてきたことが次々と否定され、このアルバムを聴いた次の日は肩で風を切り、胸を張って学校に向かった。
小学5年か6年生の頃だったと思う。地域のサッカークラブに通っていた火暗し少年は、週末に行われる練習試合や遠征の送り迎えで乗せてもらった友達のお父さんの車で聴く音楽に心を奪われていた。その中に、RIP SLYMEの『黄昏サラウンド』があった。同級生がORANGE RANGEとかを聴いていた頃、自分だけがその存在を知っているかのような気持ちで、いち早く家に帰り、誰もいない間にいつもよりコンポの音量を大きくして繰り返し聴いていた。この頃にYouTubeが普及してたら、確実に自分はB-BOYまっしぐらだったと思う。
これは正直、この曲が好きだ、というわけではなく、文字通りこの曲が人生の転機になったという意味での選曲。親父よりも自分に歳の近い叔父がいる。この人は今アコースティックユニットとして活動していて、昔からギターも歌も上手だった。中学生になった頃、この叔父さんから1本のアコースティックギターをもらった。多分、そんなに安くないやつ。そしてギターの練習方法とか、コードの押さえ方とかを教えてもらった。その時に、ゆずの夏色が簡単だから、という理由でこの曲を課題曲にされ、次会う時までに弾けるようになっていろ。みたいなことを言われたと思う。中学に入ってからも部活動でサッカーは続けていたし、遊びに行ったりとか、遊びに行ったりとかでそんなに暇ではなかったが、ギターの練習は毎日していた。Fを抑えられるようになった時、コードチェンジがスムーズにできるようになった時、
夏色を弾きながら歌えるようになったときは本当に嬉しかった。音楽に、プレイヤーとして参加するようになったきっかけの曲。
これは中学校3年生の時。校内ではなぜかビジュアル系が大流行し、昼休憩の校内放送でthe GazettEやギルガメッシュなんかが流される始末。僕はというと、どこで知ったのかが思い出せないがUVERworldにドハマりしていた。激しいサウンドとハイトーンのボーカル。見た目のスタイリッシュさなんかにも憧れを抱いたのかもしれない。今までずっと練習してきたアコースティックギターをすぐにやめ、ライブDVDやシングル、アルバムを買い集めては毎日一周ずつ観る、聴くのが日課となっていた。その時、ギターよりもボーカルの方がカッコいいな、と思い、歌の練習を開始。小さい時からトンデモ音痴だった自分の歌を、毎日大声でご近所さんに聴かせることになる。なんとなく、自分でもこれは無理だな、と思っていたが、「諦めた数と敗れた数は同じだった」という歌詞に背中を押された。
UVERworldからの流れと、友人の影響でV系もちょっと聴くようになって、ボーカルが激しくシャウトする曲を掘り下げ、海外のメタルコアバンドを聴くようになる。当時この手のバンドがめちゃくちゃ流行っていたのもあって情報は簡単に手に入った。Hopes Die LastのSome Like It coldという曲のMVを見た時に、「これ、センターのボーカル叫んでるだけやん。自分にもできる!」となった。そして僕はバンドマンとしての道を歩み始める
いくつかのバンドを転々とした後、京都で旧知の先輩に誘われその人が率いるバンドに加入。幾度もの遠征を繰り返していた。それは酷い雪の日。東京のライブハウスでライブを終えた僕らは打ち上げでいつものように大量の酒を飲み、ゲラゲラと笑っていた。酔っ払って外に出た時、体中の酔いは一気に冷め、その日知り合ったバンドマン達と真剣に音楽の話をするハメになった。その時教えてもらったのが神門の「夢を諦めて現実を生きます」という曲。
10分以上ある曲を、机の上に置いたiPhoneを取り囲んでみんなで聴いた。泣いてる奴もいた。かなりキモかったけど、気持ちはわかった。その時のバンドは僕のも含めて全部解散した。
音楽に救われた経験が僕にはない。
今でも本気で、音楽がなくても生きていけると思ってる。でも、このバンドの音楽は今日もどこかで誰かを救っているんだろうなと思う。大事な試合の前には絶対聴いてたし、今でも自分のライブの前日とかに聴く。あとプロポーズする前にも聴いたな。知らん間に、音楽に救われてるのかも。
この2枚は同時に紹介させてもらいたい。前述したバンドの解散が決まっており、自分は次のバンドを始めようとメンバーを探したり、曲を作ったりしていた。解散まで残り数本のライブ。京都GROWLY。ライブを終え、僕以外のメンバーは全員帰った後の打ち上げにて。誰と飲もうかウロチョロしていた時にGROWLYスタッフ/ピアノガールボーカル秋さんが声をかけてくれた。二人でひとしきり話した後、「紹介したい人がいる」と言って夜中3時にsewiボーカルの河野さんを呼び出し、朝まで3人で喋った。
その時にそれぞれのバンドの音源を聴かせてもらった。そして、なぜかその2日後に3人で路上ライブをやることになった。僕は慌てて家にあったあのアコースティックギターで曲を作り、1バースだけ完成させて寒い寒い川のほとりに向かった。それからどういう拗れ方をしたのか、集めていたバンドメンバーに断りを入れ、僕はパソコンでトラックを作り、ポエトリーリーディングを始め、今に至る。この2バンドに出会っていなければ、間違いなく今の僕はいない。
ポエトリーリーディングを始めるにあたり、先人にはどんな人がいるのだろう
と久しぶりにYouTubeやネットを徘徊。不可思議wonderboyや狐火、急激に人気を集めていたMOROHAに、以前教えてもらった神門。なるほどなるほど。自分もやってみる。弱い言葉。リアル。
何度もライブを繰り返す。これで間違ってない!という手応えがなかった。掘り返す。散々言われた「THA BLUE HARB」っぽいね。聴いたことないのに。聴いたことないのが問題であった。聴く。「ZONE THE DARKNESS」っぽいね。聴く。カッコイイけど、自分がやりたいこととは違った。そして、MCバトルが脚光を浴び始め、一躍有名になった呂布カルマ。聴く。歌詞のエグみや強さが脳天に突き刺さった。ポエトリーリーディング=弱さという自分で作ったルールを捨て、自分らしい歌詞を書こうと思った。
今ではヒップホップは全然聴かないけど、曲作りに躓いた時には聴くようにしている音源。
文中にも書いた通り、自分は音楽に救われたと実感したことがない。だから、10も選出できるか冷や冷やしながらペンを進めたが、あるもんですね。「無駄なことなんて一つもない」とはよくも。今まで聴いてきた音楽を振り返ると、今自分のやってることに繋がっていたり、そもそも自分のために聴いていたり。よく考えると、音楽で出会った人の影響で自分の考え方は構築されてきたし、多分これからもそう。10年後、もう一回「人生の転機になった10の音楽」を選んだ時、全部入れ替わってるくらいに衝撃的な音楽ライフを過ごしたいです。
久々に前を通ったら駅前のTSUTAYAが支配から卒業(閉店)してた。エモい。