COLUMN

2019.06.11

「自由への漂流」by Ape 第4話/I’m very ape and very nice

文:Ape イラスト:清水 里華

高校卒業から約2ヶ月が経った頃、僕はビルクリーニングのアルバイトを始めた。
深夜、1台のバンに3名~5名の作業員と大量の掃除道具を詰め込んで、閉店後の飲食店やオフィスに向かい、床や窓の定期清掃を行う、というのが基本的な仕事内容だが、僕はすぐにこの仕事が気に入った。
作業はなかなかハードで、汗は滝のようにダラダラだし、手にモップだこは出来るし、衣類はメチャクチャ汚れるし、慣れるまでの間はとにかく筋肉痛や腰の痛みも酷かった。
しかし、汚れ切った店舗などを自らの手でさっぱり綺麗にすることは、それらのマイナスを全て跳ね返すぐらい気持ちの良いものだったのだ。
作業が終わるのは大体いつも夜が明ける頃だったが、ワックスでピカピカに仕上げた床に朝日が反射する様はとても美しく、それを眺めながら吸う煙草は格別に旨かった。
この時初めて仕事のやりがいというものを知った気がする。
行き帰りの車の中でカセットテープで音楽を流して皆で歌ったり、くだらない話で爆笑したり、国道沿いの牛丼屋に寄って汚れた作業着のまま牛丼をガッついたり、狭い車内で皆で変な体勢で仮眠を取ったり、休憩中にトランプで大貧民をやったり、この職場ではそういった業務以外の部分もとても楽しく、何より1台のバンで移動して同じ釜の飯を食う感じが何となくバンドっぽくて、僕はこの仕事に精神的な自由も感じていたのだ。

実際、それまでアルバイトをろくに続けることの出来なかった忍耐力の無い僕が、このアルバイトは2年半も続けることが出来たのだ。
仕事に取り組む姿勢も真剣そのもので、誰よりも上手くポリッシャーを操れるようになりたいと思っていたし、誰よりも綺麗にワックスを掛けられるようになりたいと思っていた。
自宅でもそのためのイメージトレーニングを欠かさなかったため、この時期はどういう手順で清掃作業を進めていくか、という夢をしょっちゅう見ていた。
その甲斐あって僕の時給はグングン上がり、19歳で運転免許を取得してからは現場までの運転も任されるようになり、所謂バイトリーダー的な立場にまでさせてもらえた。
これまでの人生の中で、人に頼られたり認められたりした経験がほとんど無かった僕は、それがとても嬉しく、すっかりこの仕事にのめり込んでいったのだった。

そんな順調なアルバイトと並行して、ロックスターを夢見る僕のバンド活動も、ほんの少しずつではあるが動き始めていた。
相変わらずバンドのメンバー探しが上手くいかず、その頃は自宅で一人作曲とデモテープ制作に明け暮れていたのだが、その活動だけではどうも前に進んでいる感じがしなかったので、僕はまだメンバーも決まっていないのに、自分がこれから組むバンドの名前を考えることにしたのだ。
しかし、当時の僕にはゼロから何かを生み出す力が足りず、どれだけ考えても良いバンド名は思い付かなかった。
なので、これはもうしゃーないということで、大好きなNIRVANAの楽曲のタイトルからパクろうと思い、なんとなく一番バンド名っぽいと感じた『Very Ape』を採用することにした。
それと同時に、元々自分の本名があまり好きではなく、キャッチーさにも欠けると感じていたため、自分にも芸名を付けようと思い、Very Apeから取ってApeという名前を名乗ることにした。
ちなみに、今となっては音楽関係の友人知人やその他多くの人が僕のことをApeと呼んでくれているが、そこに至るまでにはそれなりに苦労みたいなものがあった。
例えば今の時代だったらSNSなどの便利なツールがあるので、ある日突然自分に芸名を付けて「今後はこの名前で呼んでください。」というようなことも結構気軽にやれそうな気がするが、当時はそれが出来なかったので、皆の前で直接自分の口から芸名を発表するという、顔から火が出るほど恥ずかしいことを経験しなければならなかった。
しかも、SNSのようにその発言が拡散されて一気に拡がるということも無いので、一人ひとり自分で伝えて回る必要があったのだ。

恥ずかしいと言えば、こんなこともあった。
バンドメンバーが見付からずに焦っていた僕は、なんとか状況を好転させたいと思い、10代のミュージシャンのみが参加できる某コンテストにVery Ape名義で単身エントリーしたのだ。
上述の通り日夜デモテープ制作に勤しんでいたため、宅録でまあまあのクオリティの音源を作れるスキルはあったので、一次の音源審査は問題なく通過することが出来た。
二次審査は地区ごとに行われるライヴ審査だったのだが、僕の参加エリアは市民会館のような400人~500人キャパのホールで盛大に執り行われるものだった。
ライヴ審査当日、マネージャーとかスタッフ的な人を従えた方が威圧感が出るかと思い、僕は兄のテリーさんと、テリーさんの当時の彼女に付いてきてもらって、サングラスを掛けてオラついた態度で会場入りを決めた。
それだけじゃ飽き足らず、楽屋で自分の出番を待つ間は、一番ヤバイ時の氷室狂介ぐらい鋭い目付きでライバル達を睨み付けたり、落ち着きなく貧乏揺すりをしたりして無駄に周りを威嚇していた。
ちなみに、この日は自分で作ったドラムとベースの音源を流して、それに合わせて歪ませたエレキギターを弾き語る、ロック系ソロシンガーが歌番組に出演する時のようなスタイルでの参加だった。
ステージ上のアンプや各種機材のセッティング、簡単なサウンドチェックなどライヴに必要な準備諸々は通常出番前に参加者本人が行うことになっていたのだが、僕だけ大物なので全てマネージャー兼ローディー役のテリーさんに任せて、僕は出番直前まで楽屋で控えていた。
いよいよ僕の出番である。ステージ横の袖でローディー役のテリーさんが会釈で送り出してくれる。
これでもうカリスマ性は十分過ぎるぐらい客席にも審査員にも伝わっていることだろう。
ギターのイントロから楽曲が始まり、ヴァース - コーラス - ヴァース - コーラスと演奏は順調に進んでいったが、間奏に差し掛かったところで突然僕に破壊神カート・コバーンが憑依して、目の前のマイクスタンドを思い切り蹴り飛ばしてしまった。
行儀よくまじめなんて出来やしなかったのだ。行儀よくまじめなんてクソくらえと思ったのだ。
しかし、蹴り飛ばしたマイクスタンドが倒れて1秒もしないうちに、袖に控えていたテリーさんがすっ飛んできてすぐに元の位置にセットし直してくれた。
僕だけ大物だからローディーが迅速にトラブルを解決してくれるのである。ライヴハウスでいつも見て憧れていたやつだ。
演奏が終わると、司会のお姉さんがステージ中央までやって来て「お疲れ様でした~!今日はどうでしたか?」などとインタビューしてくれるのだが、僕はいきなりそのお姉さんの肩を抱き寄せて、不敵な笑みを浮かべながら訳の分からない受け答えばかりしていたので、すぐにインタビューは切り上げられてしまった。

後日、自宅にコンテストの審査結果の通知が届いた。
結果はもちろん不合格である。
当時の僕は納得がいかず激しく憤ったが、今にして思えば、何かの間違いで次の審査に進んでしまったら全国大会で更にエスカレートした醜態を晒すところだったので、この選考でしっかり落としていただいて本当に良かった。
このコンテストで審査員を務めていた方々、その節は本当にありがとうございました!

ソロでコンテストに出るなんてロックじゃねー!
バンドだバンド!バンドで成り上がりたいんだ僕は!
コンテストの結果を受けて、僕は逆ギレ的に改めてそう思い直していた。
目標はバンドでロックスターになることだから、とにかくバンドを組まなければスタートラインに立てないのである。
もういい加減腹を括った。実はバンドを組むための最短ルートは初めから分かっていたのだ。でもその方法は禁じ手として敢えて避けていたのだ。
そもそも僕が中学2年で初めてベースを手にした時、兄のテリーさんは既にギターを弾いており、僕がまともに演奏できるレベルに達してからは何度も同じバンドで一緒にライヴをしてきたのだ。
だから「キミたち兄弟ってホント仲良いよねー。」というようなことをもう何百回も言われてきて、それがもういい加減恥ずかしくて、一旦テリーさんと距離を置きたいと思って、これまで全く接点の無かった赤の他人とバンドを組んでみたいと思っていたのだ。それが前提だったのだ。
でも、もうそんなことを言っている場合じゃない。まずはスタートラインに立たなきゃ。
幼少の頃からずっと同じ部屋で、同じ音楽を聴き、同じ漫画を読んできたテリーさんほど話が早く、意思の疎通を取りやすい人など他にいるだろうか。

2001年12月のある夜、僕は近所の公園にテリーさんを呼び出した。
当時僕は18歳でフリーター1年生。テリーさんは22歳の大学4年生だった。
その頃はまだ2人とも実家暮らしで同じ部屋で寝起きしていたが、日頃から改まった話をする時などはわざわざその公園に行く習慣があったのだ。
そこで僕はテリーさんに、正式なメンバーが見つかるまでの間、サポートメンバーという形でも構わないから、僕が結成しようとしているVery Apeというバンドにギタリストとして参加してくれないか、という相談を持ちかけた。
結局、それから現在に至るまでVery Apeに他のギタリストが加入することは無く、テリーさんは今でも元気にVery Apeでギターを弾いている。
どの時点で彼がサポートメンバーから正式メンバーに代わったのか、今となってはもう分からないが、とにかくこの日、この公園でVery Apeは誕生したのである。
赤の他人とバンドを組む、という当初の方針を変更したことで、ここからはとてもスムーズに事が運び、他のパートも地元の友達や旧知のバンド友達などが快く引き受けてくれて、すぐにメンバーは集まった。
4人編成になったり3人編成になったり、色々と試行錯誤しながらではあるが、Very Apeの活動はそうして始まったのだった。

続く。

2021.02.05追記

つい先日引っ越しをしたのだが、その荷造りでクローゼットの奥にしまい込んでいた荷物を整理していたところ、本コラムに書いたコンテストの運営側から送られてきた手紙と写真が出てきた。
その手紙と写真の存在を全く憶えていなかったので驚いた。それを大事に保管していた自分にも驚いた。そして思ったよりも褒められていたので更に驚いた。
せっかくなので、それをここで晒しておくことにする。

PROFILE

Ape(エイプ)

1983年2月16日生まれ。
音楽活動として2001年より戦慄のオルタナティヴ・ロック・バンド『Very Ape』でヴォーカル兼ベースを担当。
自営で、アパレル&バンドグッズECサイト運営、プリンタブルTシャツ卸売、Webサイト制作などの事業を行っている。

Very Apeサイト

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